一〇〇年前(100年前)の世界一周 ある青年の撮った日本と世界一〇〇年前の世界一周 ある青年の撮った日本と世界

日経ナショナルジオグラフィック社 2009-11-26
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約100年前の1905年(明治38年)に、ドイツ人のワルデマール・アベグが世界一周の旅に出かけた際に撮影した紀行写真集。アメリカ・カナダ・日本・朝鮮・中国・インドネシア・インド・スリランカを周遊。まとめたのは本人ではなく、後年のフランス人のボリス・マルタン。

ワルデマールはプロの写真家でも勇気ある冒険家でもなく、ドイツの平凡ではあるが裕福な公務員でした。特別にヒューマニストというわけでもなく、どちらかというと神経質で物静かなタイプで、以前からの夢であった旅行にカメラを持って出かけただけです。
できれば3等ではなく1等客室で快適に旅行したい。現代の主だった旅行者と同じような(都合の良いという点で同じような)意識の持ち主で、異なるのはアメリカで黒人奴隷を見ても人権問題に悩んだりはしないという点で当時の人であるということです。

そんな彼の写真が読み物になるのは、100年前の近代以前の異文化が写されているからというステレオタイプな理由ではありません。
初めは、彼の目は近代西洋の列強国から来た旅行者の目でした。しかし、各国の豊かな地域性・景色・人に触れるうちに、1年半の旅の終わりにはまったく違う視点を獲得します。それは、画家のゴーギャンが抱いたものと同じような、「自然に帰りたい」という逃避的な感情としても現れてきます。
つまり、疑う余地のなかったヨーロッパの秩序・文明・文化・科学といったものが、果たしてどれほどの幸福をもたらす可能性があるのか?そう自問を始めるのです。そして結局、その自問は現実のものとなります。

20世紀は「戦争の世紀」と言われるように、ワルデマールの帰国後、近代兵器による第一次世界大戦が起こり、それまでの平和なヨーロッパはバランスを崩します。ドイツではナチスが政権を取り、第二次世界大戦へ、さらには冷戦へとなだれ込んでいきます。
そういった予感のもとに、ワルデマールの写真は写されているように思います。だから、ただの異文化の記録写真ではなく、激動の世紀が始まる前夜の穏やかな時間、ただし二度と復元されることはないというセンチメンタリズム、そして彼自身の心の変化が「記憶」として残されている点で、一枚一枚に心が惹かれます。
もちろん、その時代に生きていない私たちにその当時の「記憶」などはありません。しかし、ワルデマールの「記憶」から、仮想的にそれを共有させる写真の力を感じます。
少なくとも、彼が写した日本の景色や人は今なお新鮮です。富士山の眺めは、ほぼ現在眼にするものと変わりがありません。

当時の日本は、近代化を目指して邁進し、帝国主義国家として西洋列強の仲間入りを果たそうとしていました。例えば、現在NHKドラマで放送されている司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」で描かれているような日本に、ワルデマールは訪れていたのです。
その意味で、彼の写真は日本の「記憶」でもあるように感じられます。
「一九世紀と二〇世紀の境目で生きたワルデマールは、前世紀の生き残りであると同時に、新しい時代の斥候でもある。彼の記録によって、以後の世界がどのように変わったのか、はっきり見て取ることができる。」という本書の序文にある「斥候」という一言に、まさにそのことが示されていると思います。

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